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足利 義兼の人生

意外と複雑なんですね。
こんな仕組みになっているとは意外な事でした。

足利 義兼(あしかが よしかね、生年不詳 - 1199年4月5日(正治元年3月8日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の武将。通称は三郎。

父は足利義康(その三男)。生母は藤原季範の娘(源頼朝の母の妹)を通説とするが、実は季範の息子・範忠の娘で季範の養女。頼朝とは父方でも母方でも近い存在であった。異母兄に足利義清、足利義長(別名:義良、義清と同腹)ら。同母弟に足利義房。妻は北条時政の娘、北条政子の妹(1181年2月の項:頼朝の仲介による)。

畠山義純・足利義助・足利義氏・桃井義胤らの父。


経歴
父が早世したために、幼少期には伯父である新田義重の軍事的庇護を受けていたとされる(秩父足利合戦)。

1180年(治承4年)、頼朝が伊豆で挙兵すると、八条院蔵人だった叔父の源季邦と以仁王の関係によって、早くから血筋の濃い関係にある頼朝に従った。一方、異母兄・義清は木曾義仲の軍に合流し、その傘下の武将となった。

養和元年(1181年)9月、頼朝の命で三浦氏一族の和田義茂とともに対立した藤原姓足利氏の足利俊綱・忠綱父子を討伐した。同9月7日前夜に、忠綱の武将で義兼のいとこでもある桐生頼忠(義重の末子)に密使を出して、足利父子の殺害を唆した。翌日に、頼忠は俊綱・忠綱父子を殺害した。義兼は義茂とともに軍勢を繰り出して、これを滅ぼして下野国全域を統一させた(「群馬県郷土史」の『桐生市史』)。

1184年(元暦元年)5月、源義高(源義仲の子)残党の討伐において戦功を挙げた。その後は頼朝の弟・源範頼の手勢に与して平氏討伐で戦功を挙げた。

翌1185年(文治元年)今までの功績により、頼朝の知行国である上総国の名国司(上総介)に山名義範とともに推挙されている。

1189年(文治5年)の奥州藤原氏討伐にも従軍している。1190年(建久元年)に出羽において奥州藤原氏の残党が挙兵すると(大河兼任の反乱)、追討使に任じられ、乱を平定している。

義兼は、源氏一門として頼朝の「門葉」として幕府において高い席次を与えられた。

1195年(建久6年)3月に東大寺において出家し、義称と称した。その後は下野国足利荘の樺崎寺に隠棲し、1199年(正治元年)3月8日に樺崎寺にて死去し、同所に葬られている。現在の樺崎八幡宮本殿は、義兼の廟所である赤御堂である。法名「鑁阿寺殿義称」。 足利鑁阿寺は、義兼の持仏堂を義氏が発展させたものといわれる。

長男の畠山義純は畠山氏及び岩松氏・田中氏の祖となり、次男の義助は承久の乱で戦死した。三男の義氏が足利氏の跡を継いでいる。四男の桃井義胤は桃井氏の祖となった。

なお、義兼の出家は、彼があまりに戦功を挙げすぎた有能すぎる武将だったため、頼朝をはじめとする周囲から排斥されることを恐れての処世術であったと言われている。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年1月28日 15:29に投稿されたエントリーのページです。

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